旺文社文庫(1981)
ごく短い
「鶴」を最初に置いたこの本は、次にそれよりは長い
「長春香」が続き、そのあとタイトルのついた文章が34篇収められているのだけど、読み進め、また読み返しているうちに、ぜんぶの文章のあり方が
「鶴」と
「長春香」で示されていたように思えてきた。そのことを書く。
3ページしかない
「鶴」は、随筆のように始まる小説である(ちくま文庫の百閒集成では
『冥途』の巻に入っている)。
ぜんたいは、「私」が晴れた日に無人の庭園で鶴に追いかけられる話、ということになるのだが、まともにこっちの顔を見てくる鶴に迫られることと、
何かを思い出すことが、なぜか、しかし当然のように重なって「私」を脅かす。
《私は近づいて来る鶴に背を向けて、なるべく構はない風を装[よそほ]ひつつ、とつとと先へ歩き出した。
急にいろいろの事を思ひ出すやうな、せかせかした気持がして、ひとりでに足が早くなつた。その中には、既に忘れてしまつた筈[はず]の、二度と再び思ひ出してはいけない事までも、ちらちら浮かび出して来さうであつた。小さな包みを袂[たもと]から出して、渡し舟の舷[ふなべり]にそつと手を下ろし、川波がきらきらと輝やいて、その中にむくれ上がつた様な大きな浪[なみ]が一つ、舟の腹に打ち寄せて来た。何年経つても、起[た]ち上がつた拍子に、或は坐[すわ]つた途端に、ありありと思ひ浮かぶのである。鶴の足音が聞こえて来た。そんな筈はない。その時もう私は馳け出してゐて、芝生の草の根に足をすくはれ、向脛[むかうずね]をついて、前にのめつた頭の上を、さはさはと云ふ羽根の擦[す]れる荒荒しい音がして、鶴が飛んだ。》pp9-10 *以下、すべての下線・太字は引用者
下線を引いた《何年経つても、起ち上がつた拍子に、或は坐つた途端に、ありありと思ひ浮かぶのである。》は何のことを言っているのか。これがよくわからない。
(1)鶴に追われる「私」がここで思い出しそうになっている(同時に思い出してはいけないとなぜか事前に判断を下している)事柄は、それまでにも何度となく、ひょんな拍子にありありと思い浮かんできたことだったのだ
と書かれているのか、それとも、
(2)鶴がきっかけで何かを思い出しそうになった「私」の舟に大きな浪が打ち寄せて来たという体験が、時を隔てた今、そのことを書いている「私」の頭に何年経っても思い浮かぶのである
と書かれているのか。
つまり、《何年経つても、起ち上がつた拍子に、或は坐つた途端に、ありありと思ひ浮かぶのである。》という一文が、(1)鶴に追われる出来事の中にあるのか、(2)外にあるのか、何度読んでもどちらなのか位置が定まらない、というふうにわたしは読んでいる。
(おそらく、この一文を、引用した部分の最初のほうにある《急にいろいろの事を思ひ出すやうな、せかせかした気持がして、ひとりでに足が早くなつた。》に引きつけて読めば(1)のように見え、後ろのほうの《そんな筈はない。
その時もう私は馳け出してゐて、芝生の草の根に足をすくはれ、》に引きつけて読めば(2)のように見えるのだろう。でも、ずっと考えていると逆であるような気もしてくる)
しかし、わたしは思うのだけど、思い出すという行為には、というか、思い出したことを書くという行為には、こういった、どの時点のことなのか不明な部分がしょっちゅう、取り除きようもなく、紛れ込んでくるのじゃないだろうか。
過去にあったことを思い出して、文章にしたためる。思い出される内容は過去にあったことで、思い出すという行為は、書いている時点でおこなっていることである。
(この「書いている時点」を「現在・いま」とする。その文章をわたしが読んでいる時点もそれと同じ「現在・いま」である。わたしが読むたびに、文章はその都度書かれている。そう考える)
もう一回。
過去にあったことを思い出して、文章にしたためる。思い出される内容は過去にあったことで、思い出した内容を書くという行為は現在おこなっていることである。
それはそうだ。そのはずだ。それはそのはずなんだけれども、思い出した内容にかたちを与える言葉・文章というものは、過去と現在をそれほど画然とは区別できない。加えて、思い出される過去は繊細な小動物みたいなもので、それを書きたい者の手で隅っこから引っぱり出そうと触れられた途端に固くなったり熱くなったり、もとの格好のままではいない。
それで思い出を文章にすると、その文章には過去と現在が含まれてしまう。「含まれてしまう」などと書くと大仰だが、「過去」にあったことを「いま」思い出すという単純な物言いのなかにもふたつの時間が入っている。過去の出来事は、思い出されたことによって微妙に変わっている。
とはいえ、そこを無視することだってできる。年表のように、思い出した過去の事柄だけを動かない事実として並べていくことで、過去は過去として、現在とは切れたむかしのこととして書くこともできるし、そのように読むこともできる。「こともできる」というか、たいていの回想はそういうものとして通用する。そんな書き方と読み方が便利なことも、そんな書き方と読み方が必要とされることもあるのはわかる。
だけどそうしない人もいる。過去のことをいま思い出しながら、思い出したことを文章にしながら、その「思い出す」というおこないについても文章にする。思い出そうとする働きかけが思い出される内容を変えてしまうことにも触れて書き足す。さらには、思い出された内容によって、思い出している現在の自分のほうが影響を受け変わってしまう、そのいきさつじたいも書き加える。そんな人もいる。
さきほど
「鶴」から引用した部分の最後、《鶴が飛んだ。》のあとはこう続く。
《長い脚がすれすれになる位に低く、茶畑の上を掠[かす]めて、向うの土手の腹にとまり、そこから羽ばたききしながら土手の上まで馳け上がつて、れいれいと鳴き立てた。
その声が、後樂園を取り巻く土手の藪にこだまして、彼方[あちら]からも、こちらからも、れいれいと云ふ声が返つて来た。
私は身ぶるひして起き上がり、裾[すそ]の砂を拂[はら]ひもせずに、辺[あた]りを見通すと、池はふくらみ、森は霞んで、土手の上の鶴の丹頂は燃え立つばかりに赤く、白い羽根に光りがさして、起つてゐる土手のうねりが、大浪の様に思はれ出した。》p10
ここで《身ぶるひ》している「私」は、思い出された過去の中の「私」なのか、思い出している(そして書いている)現在の「私」なのか。そこは区別できるんだろうか。そもそもこれは、思い出された過去の出来事なのか、思い出された過去の出来事として創作されたことなのか。そこは区別できるんだろうか。
これは創作だし、回想を装っているふうでも創作であるのだし、その創作の中で語り手兼作中人物の「私」が《身ぶるひ》しているだけなのだと、そう言い切ろうとしても、その「私」が何かを思い出しそうになっているという一点で、書いている現在の「私」とのつながりができてしまう。そのつながりは明確でないだけに断ち切るのがむずかしい。それで作中の「私」の動揺は、書いている「私」にまで波及して、書かれる「私」のまわり全体がぐらつき始める。
《柄[え]の長い竹箒[たけばうき]を持つた男が、私の後に起つてゐると思つたら、矢つ張り鶴であつた。爪立[つまだ]てするやうな恰好[かつかう]をして、いつまでも私の顔をぢつと見つめた。
足もとの草の葉も、池に浮かんだ中の島の松の枝も、向うの森の楓[かへで]の幹も、みなぎらぎらと光り出した。川波に日が射して、眩[まぶ]しい中に一ところ気にかかる物がある。川下の橋から傳[つた]はる得態[えたい]の知れない響きが、轟轟[がうがう]と川の水をゆすぶつてゐる。》p10
「私」が《身ぶるひ》していることだけは確かで、「私」が《身ぶるひ》していることがすべてだと思う。百閒の書くものが小説と随筆のはっきりしないあいだに立っているように、ここでの「私」は、書かれている時点と書いている時点との、はっきりしないあいだに立っている。文章の流れが、自然と「私」をそんな境目の見えない境目に運んでしまう。
わたしは、この短篇で「私」を不安にさせて急に飛び立つ鶴が、不随意によみがえって「私」を脅かしながら眩惑する記憶なるものの象徴であるだとか、「片付けすぎ」なことは言わないようにしよう(だってわたしはそんなふうには読んでいないのだから)というつもりでここまでを書いてきたのだったが、読み返すと、なんだかいかにもそんなことを言おうとしている感じの文章になっているようで心配である。そう見えるなら、わたしはそう読んだのかもしれない。
だとするとちょっと残念だが、言いたかったのはこういうことだった――
『鶴』は回想の本で、その回想が独特で面白い。22字で済んだ。以下は引用。
「漱石先生臨終記」は、青年時代から「先生」と崇めた漱石との付き合いをあれこれ綴ったものである。家を訪問できる関係になってからのいつだったか、漱石が何かの病気で寝込んでいると聞いた百閒はお見舞いに行ったが、そんなに会話が弾むわけでもないので困ってしまう。
《私の方でつまらないから、もう帰らうと思ふと、今度は、先生が黙つて寝てゐるから、その潮時がないのである。やつと機会を見つけて、「失礼します」と云つて起ちかけた時、ふとさつき門の前で、子供が鬼ごつこをしてゐたのを思ひ出した。私は東京の子供の遊び言葉をよく知らなかつたので、不思議な気がしたから、先生に聞いて見た。
「大勢電信柱につかまつて、がやがや云つていましたが、何と云つて遊ぶのですか」
「いつさん、ぱらりこ、残り鬼と云ふのだよ」と先生が枕の上で節をつけて云つた。
もう一度「失礼します」と云つて、病室を出てから、廊下を歩きながら、私は口のうちで、繰り返した。病床に寝て、独りで天井を眺めてゐる先生も、さつきの口癖で、又いつさんぱらりこ残り鬼と云つてゐる様な気がした。》pp109-10
こういった何気ない心の動きを「おぼえている」、そしていま「書くべきものとして書いている」ことに半分感心して、半分は呆れてしまう。よくそんなことをおぼえていた/書いた。
「湖南の扇」は、友人だった芥川龍之介の最期の数日を回想したもの。1927(昭和2)年7月24日、百閒は出版社の人間から知らせを受けた。電話機の向こうの声が並べられる。
《「芥川さんがお亡くなりになりましたが」
私は、どんな返事をしたか、ちつとも覚えてゐない。
「まだ御存じないと思ひまして」
「自殺なすつたのです」
「麻薬を澤山[たくさん]召し上がつて」
「左様なら」》p115
こんな大変なときに、大変なときだからこそ、自分の返事をおぼえていない。いかにもそういうことはありそうだ。それでいて、「左様なら」をおぼえている。なるほどそういうこともあるだろう、そんな気がする。そしていま、ここに「左様なら」を書く。
なんでだ。「左様なら」のせいでこのやりとりの生々しさは3倍増しくらいになるが、そういう効果を狙って書き足したのではないだろうことは、この数行だけでも明らかである。百閒は、そうおぼえているから、そう書いた。
《芥川の家に行つて、奥さんに一言お悔[くや]みを述べた様な気がするが、はつきりした記憶ではない。目のくらむ様な空を眺めながら、ふらり、ふらりと坂道を降りて来た。往来に一ぱい自動車が列んでゐて、道が狭いから、うまく歩けない。道傍[みちばた]のお神さんが、「七十台来てゐるよ」と云つた声だけ、はつきり耳に這入[はひ]つて、「それは大変だなあ」と私は腹の中で感心した。》p115
べつに百閒でなくても、おそらくだれにとっても、記憶はこういういいかげんな働き方をしているのじゃないだろうか。大事な出来事が大ごとすぎて扱いかねるせいなのか、頭のなかに定着しないことがあり、それでいて意識は敏感になっているせいなのか、些事ばかりこびりつくことがある。
しかしそれらを振り返って書くときに、内容の大小を問わない記憶の定着具合を、大小を問わないまま書くのは、おそらくだれにでもできることではない。小さいことを忘れずに書いているからすごいのではなくて、大小に関係しない記憶のあり方が、個人の頭の中ではなく、だれにでも読める文章のかたちで保存されていることにおどろくのだ。それで、そのような文章を読むのは、他人の記憶のあり方をそのままなぞることになる。
巻末解説によると
「湖南の扇」は1934(昭和9)年の発表で、芥川の自殺から7年が経っている。そしてこう終わる。
《芥川は、煙草に火を點[つ]ける時、指に挟んだ燐寸[マツチ]の函[はこ]を、二三度振つて音をさせる癖があつた。
芥川の死後、ふと気がついて見ると、私はいつでも煙草をつける時、燐寸を振つてゐた。以前にそんな癖はなかつたのである。又、芥川の真似をした覚えもない。
亡友を忍ぶよすがとして、私はこの癖を続けようと、気がついた時に更[あらた]めて決心した。
矢張り歳月は感傷を癒[い]やすもので、今、この稿を草しながら考へて見ても、私は燐寸の函を振つたりなんかしてゐない。いつ頃から止めたか、そんなことも勿論解らない。
これで筆を擱[お]いて、何年振りかに、燐寸を振つて、煙草に火をつけて、一服しようと思ふ。》p116
記憶にも層がある。だがその層はでたらめだ。過去の自分が何かを思い、それを忘れてから、忘れていた、と思い出す。順番に重ねられたままではなく、いつのまにか抜け落ちたり入れ替わったりしている思い出の地層の、この時点でのありようを百閒はこうしてひとまず書き留めた。最後のこの部分がさり気なくも大切な註釈に感じられるのは、これを書き上げて一服したあとも芥川の思い出は変化していくだろうことを百閒はわかっていると、読んでいるこちらにもわかるからだと思う。
「蓄音器」では、芥川とも百閒とも知り合いだった「黒須さん」が出てくる。百閒は漱石の没後、夏目家から蓄音器をもらい受けて夢中になる。その時期に訪ねてきた黒須さんに、午後いっぱい、ひたすら蓄音器のねじを巻いて曲を聞かせた。それから百閒は生活が苦しくなり、蓄音器もやむをえず質屋に入れたが、必死で利子を払い続け、5年くらいかかってやっと取り戻すことができた。
《座敷の真中に置いて撫で廻した。
撚[ね]ぢを捲[ま]いて、蓋を開けて見ると、昔に変らぬ調子のいい囘転の、微[かす]かな音が聞こえてくる。それで手近の盤を一枚のせて見た。聞き慣れた旋律が、何年振りかに耳の底に甦[よみがへ]つた途端に、不意に涙があふれ落ちて、しまひには蓄音器の上に顔を伏せたまま、声を立てて泣き出した。》p138
ふたたび黒須さんと対面したとき、かつての午後のことを話題に出しても、今度は話だけである。
《うつかり昔を思ひ出す様な事をして、眠つてゐる記憶をゆすぶると、そいつが目を覚ます拍子に、思ひ掛けない涙を押し出す事があるらしいから、黒須さんと昔の話はしても、蓄音器には手を触れないのである。》p138
記憶が現在の自分に及ぼしかねない威力をこれくらい用心している人である百閒は、ひと一倍記憶にこだわる人でもあり、『鶴』のうしろ三分の一には、幼少期から十代後半まで、岡山で暮らした時代の思い出話がこれでもかというくらい詰め込まれている。それが
「烏城追思」と
「郷夢散録」で、わざわざ地元岡山の新聞に発表していったという。
尋常小学校の幼稚園に通うようになった最初の年、
《みんなと一緒に手をつないで、
ひいらいた開いた
蓮[はす]の花が開いた
と歌ひながら、段段後退[あとずさ]りして、輪を大きくしながら、
れんげの花がひいらいた
と云ふところで、一ぱいに拡がり、
開いたと思うたら、
見る間にすうぼんだ
と云ふ時、急いで前に走つて輪をすぼめて、真中で先生の袴[はかま]に、どしんと頭をぶつけた。四十何年、風にさらした額の奥に、その時の温もりが、微かに残つてゐる様な気がする。》pp171-2
これぐらいなら微笑ましいが、次第に「よくそんなことをおぼえているよな」という、おぼえている内容に対する感心と呆れよりも、「それをこんなふうに思い出して書こうとしている」という、思い出し方に対して、どうなっているんだという気持が大きくなってくる。
小学校への通学路を思い出し、学校にあった講堂についても思い出すところ。
《溝を渡ると、右側は晒布[さらし]屋である。中島の磧[かはら]に乾した晒布が、日向[ひなた]に映えてゐた景色は、子供の時のおぼろげな記憶の中の、白い色の大部分を占めてゐる様である。
晒布屋の前は荒壁の土塀で、それについて曲がる所は四つ角である。ついて左に曲がれば学校に行く道である。右に行くと向うは土手で、袋路になつてゐる。その中に、子供の時のなつかしい人がゐた事だけは思ひ出すけれども、辺りの景色計[ばか]り覚えてゐて、肝心の人の顔が解らない。口髭の生えた人のやうな気もするが、それも曖昧である。》p177
《その講堂の真正面に掛かつてゐた大きな額の字が、はつきり目の底に残つてゐる様な気がする癖に、思ひ出せない。邪魔をする薄い膜の様な物を拂[はら]ひのけようとしても、どうしても取れないのである。》p181
通学路を書きながら、というか書くことでもって、頭の中に存在している道筋をたどり、しかし一部の記憶エラーのせいで行き止まりになっているかのような書きぶりや、記憶の中にはたしかに掛かっている額に脳内で目を凝らせば、じゃまな幕を払いのけてもっとよく見ることができるとでも言いたげな思い出し方。そんな思い出し方はふつうできないだろうに、「できない」ことを真面目に悔しがっている。
ささやかなうえにもささやかな思い出の回想でありながら、正確さを求めるアプローチが妙なものに見えてくるこんな文章を読んでいて連想したのは、
リディア・デイヴィス『話の終わり』(1995)である。こちらは語り手の「私」が、別れた男のことやその男にまつわる大小さまざまな事柄をえんえん回想し続ける
小説ということになっているが、思い出し方という点で百閒の随筆と区別のないところがあちこちにある。
《彼の体に腕をまわすと、指先や腕の皮膚にまず触れるのは彼の着ている服の生地だった。腕に力をこめるとはじめて、その下にある筋肉や骨が感じられた。彼の腕に触れるとき、実際に触っているのは木綿のシャツの袖だったし、脚に触れれば、触っているのはすりきれたデニムの生地だった。》p48
《彼の車の中がどんなふうだったか、このあいだから思い出そうとしている。何か赤いものが見えるが、それが彼のチェックのシャツなのか、車にいつも置いてあった毛布なのか、それとも座席の色なのか、はっきりしない。古びた車に特有の、ひからびた座席の革や中の詰め物のむっとカビ臭いにおいがしたこと、そしてそれに重なるようにすがすがしい洗濯物のにおいがしていたのは覚えている。》p85
(岸本佐知子訳)
あくまでささやかなまま常軌を逸していく両者の思い出し方は、どちらもそれぞれ思い出したい内容への執着の強さがなせる技だろうし、そしてまた、「触覚」や「見たこと」に負けず劣らず「におい」が重要になってくるのは百閒のほうも同じだった(というか、これはだれにとってもそうかもしれない)。
《[…] 今でもワニスの臭[にほ]ひがすると、不意に小学校の時の事を思ひ出す。
にほひは追憶囘想の媒介となつて、ワニスの他に、私は赤皮のにほひを嗅ぐと、忽[たちま]ち小学校一年生新入の折の事を思ひ出す。それは初めて掛けて行つた、新らしい鞄のにほひなのである。しかし、そのにほひから、次にどう云ふ事件を追想すると云ふ様な、はつきりした気持ではなく、何だかさう云ふにほひを嗅いだ途端に、もやもやした当時の雰囲気を身辺に感ずるのである。だから思ひ出としては、一層直截[ちよくせつ]な姿を再現する事にもなるのである。》p179
「アプローチが妙」「思い出し方がどうかしている」と書いてきた。リディア・デイヴィスにしろ百閒にしろ、そうやって書かれた個人的な上にも個人的な記憶を、国籍や時代の違うわたしが読むということは、そんな「妙」で「どうかした」努力でもってつかみ出された極私的な塊りをこちらに手渡されるということであり、本人にとって貴重なのはまちがいないにしろ、それを自己紹介もしていなければ知り合いでもないこちらに向かってこんなに無造作に譲渡してしまっていいのだろうかと、心配する気持まで生まれてくる。他人の回想を読むのがスリリングなのは、いつのまにか人の思い出し方を追体験しているということのほかに、この「わたしなんかがこんなものを受け取っていいんだろうか」という心配のためではないかと思う。
ところで、「よくそんなことまでおぼえているよな」「それをよくこんなに思い出したものだな」というこちらの感想は、頭の中におぼえていることを文章として外に出す、という構図が前提になっている。それは自分の実感としてもそうなのだが、「思い出す」と「それを書く」のあいだの、重なっているようで開いている、開いているようで重なっている関係をどう考えればいいだろう。
「烏城追思」の一節を引用する。家から中学校へ通うのに渡し舟で川を渡っていた百閒は、よく渡守
[わたしもり]の爺さんに頼んで
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《荒手の波止は水をかぶつて、いつもの半分も水面に現はれてゐなかつた。それでもその内側には川波もなく、河心の荒れてゐる様子に比べて却[かへ]つて無気味な程静かな水が、ふくらんでゐた。土橋川は大川の水勢に押されて、逆流してゐるらしく、荒手の藪陰の暗い水面を、嵩高[かさだか]く浮いた枯木の根のやうなものが、ひたした影と共に静かに上手[かみて]に溯[さかのぼ]つて行くのが、ありありと見えた。
私は出来るだけ艪を押さへて、舳先[へさき]を殆[ほとん]ど河流に溯航[さくかう]する様に向けた。さうして、滑らかな水面を波止のすぐ下手[しもて]まで漕ぎ上つた。波止の背を越える水勢は、鬣[たてがみ]の様にささくれ立つて、繁吹[しぶ]きを飛ばしてゐる。私は少しづつ艪を引きながら、舟を縦に向けたまま、波止の外れの激流に乗り入れた。水の面が、波止から向うは、中高になつてゐるのが、はつきりと解る様に思はれた。舟の底を板で打つ様な音がして、黄色い波が砕けた。人の頭ぐらゐある大きな泡が、中流を筋になつて流れてゐる。その泡が舟底や舷[ふなべり]で潰れると、生生[なまなま]しい砂泥の臭[にほ]ひが、ぷんぷんにほつて来た。
中流の波の高さは二三尺もあつた様な気がした。舟は波に揉まれ、流れに押されて、段段下つて行く内に、少しづつ私の手心で向う岸に近づいてゐる。私の少年時代の得意は、その瞬間を絶頂とする様である。青木先生は向うを向いて、ぢつとして居られた。》p169
この見事な回想を、見事な回想(よくおぼえていて、よく思い出したよな)と言って済ませていいのだろうか。
目で見た水面のふくらみ、鼻で嗅いだ砂泥のにおい、艪から伝わる水の抵抗などなど、そういった材料はもちろん頭の中にあったにしても、それらを「思い出しながら書いている」というだけではこの文章はおさまらず、「書きながら、書くことで思い出している」と付け足してもまだ足りない気がする。
ここでなされているのが、思い出の、言葉による再構成であるのはまちがいない。
再構成という言い方をしたのは、百閒にとってこういうことを書くのは、自分の記憶を言葉で文章に仕立て直す作業だっただろうと想像するからなのだが、しかし「思い出す」と「それを書く」はそのままイコールではないはずだ。
人は過去を言葉でおぼえているわけではない。材料となる思い出は書く前からずっと頭の中にあったにしても、言葉・文章としてしまっていたわけではないのだから、思い出が言葉になるのは、それを書いているときがはじめてだろう。
言葉でなかったものを、言葉にする。思い出の再構成は、思い出をその場で、その都度、作り出すことではないか。
だれにでも、いろんな記憶がある。それらの記憶は頭の中にあるかぎり、だんだん薄れていったりほかの記憶と混ざったりするにしても、「過去にあったこと」なのは変わらない。でも文章にされた記憶は、書かれた時点で(「過去にあったこと」として)あたらしく生まれている。
「過去にあったこと」を文章にするのは、あたらしい記憶の創作になる。そう考えると、回想と創作はほとんど重なってくる。先ほど少年百閒の舟が渡っていたのは、そんな回想と創作が合流して流れる川なのじゃないかと思う。
《土橋川は大川の水勢に押されて、逆流してゐるらしく、荒手の藪陰の暗い水面を、嵩高く浮いた枯木の根のやうなものが、ひたした影と共に静かに上手に溯つて行くのが、ありありと見えた。》
そして、思い出を材料にして書くことが思い出を作ることであるいっぽう、そうやって作られたあたらしい思い出に合わせて、頭の中にあったはずの、もとの思い出も変わっていくだろう。書くことは双方向に作用する。
《中流の波の高さは二三尺もあつた様な気がした。舟は波に揉まれ、流れに押されて、段段下つて行く内に、少しづつ私の手心で向う岸に近づいてゐる。》
思い出を書くことによって思い出が変われば、それを思い出すいまの自分も変わる。漱石の思い出を書くことがいまの百閒を支え、芥川の思い出を書くことがいまの百閒のふるまいに影響を及ぼす。漱石や芥川の思い出を書くことは、漱石や芥川の思い出を作り直し、作り変えることであり、そうやって思い出を作り直し、作り変えるのが、いまの自分を作り直し、作り変えることになる。
つまりは、「過去にあったこと」と現在の自分との関係を、作り直し作り変えることが、思い出を文章にすることだと思う。
そんな回想の文章の集大成として、この『鶴』冒頭2篇めの
「長春香」がある。集大成というと言葉が大き過ぎるが、この小さな文章は、「長野初」という若い女性、《稍
[やや]小柄の、色の白い、目の澄んだ美人》の思い出を書いたものである。
三十代のはじめ、独逸語の教師としていくつかの学校をかけもちしていた百閒は、知人からの紹介でこの長野の個人教授をすることになった。自宅に日参させてスパルタ式の授業をおこない、長野もまたそれによく応えてどんどん進歩する。そんな思い出の合間に、いちど子供を亡くし離婚も経験していた彼女から聞いた、彼女のほうの思い出も混ざっていく。
《その話の中に、臺灣[たいわん]の岸を船が離れて、煙がなびくところがあつた。長野が船に乗つてゐたのだか、出て行く船を岸から見送つたのだか、私は覚えてゐない。子供の時の話の様でもあり、結婚に絡まつた一くさりの様にも思はれるし、何だかその時聞いた話は、全体がぼんやりした儘[まま]、切れ切れになつて、私の記憶の中に散らかつてしまつた。》p13
そのうち百閒は、長野が両親と暮らす本所の石原町にあった家に招かれて、鳥鍋を御馳走になる。当日、百閒はあいにく胃が痛かった。そんな感覚を繊細な言葉に移していくその日の回想に、不思議なタイミングで「鳥の形をした一輪插(一輪挿)」が挟み込まれる。
《鍋の中を突つつき、骨をかじつた。骨を嚙む音が、その儘[まま]胃壁に響いて、痛みを傳[つた]へる様な気がした。笹身の小さな切れが咽喉[のど]から下りて行くと、その落ちつく所で、それだけの新らしい痛みの塊りが、急に動き出す様に思はれた。
盃を押さへ、箸を止めて暫[しば]らくぼんやりしてゐた。壁際に長野の机があつて、その上に、今私がこの稿を草する机の上に置いてゐる鳥の形をした一輪插[いちりんざし]があつた様な気もするし、そんな事は後から無意識のうちにつけ加へた根もない思ひ出の様な気もする。》p15
何のことなのか、読んでいるこちらに少しの謎を残したまま時間は大正の終わりの数年をまたぐ。そして――
《間もなく九月一日の大地震と、それに続いた大火が起こり、長野の消息は解らなくなつた。》p16
《焼野原の中に、見当をつけて、長野の家の焼跡に起[た]つた。暑い日が真上から、かんかん照りつけて、汗が両頬をたらたらと流れた。目がくらむ様な気がして、辺りがぼやけて来た時、焼けた灰の上に、瑕[きず]もつかずに突つ起つてゐる一輪插を見つけて、家に持ち帰つて以来、もう十一年過ぎたのである。その時は花瓶の底の上薬の塗つてないところは真黒焦げで、胴を握ると、手の平が熱い程、天火に焼かれたのか、火事の灰に蒸されたのか知らないが、あつくて、小石川雑司ヶ谷の家に帰つても、まだ温かかつた。私は、薄暗くなりかけた自分の机の上にその花瓶をおき、温かい胴を撫でて、涙が止まらなかつた。》p16
わたしは百閒の文章はなるべくたくさん、なるべく長く引用したい(そのほうがこのブログを見に来ている人のためになる)と思っている人間だけれども、この前後1ページ、関東大震災の焼跡の様子と、のちに人から又聞きすることになったその日の長野の姿は、ちょっと書き写すことができない。それからも百閒は、竹竿の先に彼女の名を書いた幟
[のぼり]を下げて
HKS00112 「CRAZY FOR YOU 1.2.6巻」を歩いた。
秋が過ぎるころ、長野を知る者たちを集めて追悼会が開かれた。その場で即席の位牌を作って
長春香を焚き、闇鍋が始まる。肉も野菜もそのほかも鍋に投入され、酒が進むうちに、位牌を蒟蒻
[こんにゃく]で撫でる者や、位牌も煮て食おうと言い出す者が現われ(後者は百閒である)、実際に位牌は折られて鍋に入れられる始末、闇鍋の中も、それを囲む座も、ごちゃごちゃになってしまう。
でも本当にごちゃごちゃなのは、鍋よりも思い出のほうなのだ。
長野の家の近くにあった煎餅屋も助からなかった。そこの跡取りは向島に出かけていたのに、地震のあとで燃える家の中に戻って焼け死んだ、という話を百閒は《
長野から聞いた様な気がする》と書く。
《それで一家全滅したので、家の焼跡にお寺を建てて、殆[ほとん]ど死んでしまつた町内の人達の供養をする事になりましたと長野が話した様にまざまざと思ふ事があるけれども、勿論そんな筈はない。私は年年その小さなお寺の前に起つて、どうかするとそんな風に間違つて来る記憶の迷ひを拂[はら]ひのけ、自分の勘違ひを思ひ直して、薄暗い奥にともつてゐる蠟燭の焰[ほのほ]を眺めてゐる間に、慌ててその前を立ち去るのである。》p20
ごく控えめに言っても、百閒が長野に特別な感情を抱いていたことは文章のはしばしからよくわかる。その気持をおもてにするためにこの文章は書かれたように見えるほどだ。彼女の思い出も、郷里や漱石や芥川の思い出も、かけがえなく大切なもののはずなのに、どうして記憶はこんなふうに《間違つて来る》のか。
それは、おぼえている側が生きているからだと思う。思い出す側が生きているから、《間違つて来る記憶の迷ひを拂ひのけ、自分の勘違ひを思ひ直して》みても、どうしたって記憶は薄らぐし、変わってしまう。なかったこと、《根もない思ひ出》が無意識のうちにつけ加えられ、あったことが失われて、失われたことは、もう一度「あれを忘れていた」と思い出さないかぎり、ずっと失われたままになる。その全部は、こちらが生きているから起こる。
だったら生きているほうは、文章を書くしかない。書くことで思い出が変わってしまういきさつも飲み込んで、思い出をおぼえておくためにも、思い出をおぼえている自分の変化を知るためにも、変わっていく思い出をはかなみながらまた作り直し作り変えるためにも、書いておくしかない。
過去とは、なくなってしまったもののことだ(当たり前)。なくなった物やいなくなった者を、文章にするたびに更新し、思い出す自分を更新することで、その都度、なくなってしまった過去と自分の関係を結び直す。それは、なくなってしまったものをいまの自分といっしょにあらしめようとすることだろう。回想するのはそのためで、思い出を書くのもそのためなんじゃないだろうか。
何が人にそういうことをさせるのか。動機となる感情の名前をわたしはひとつ知っているけれども、これだけ書いてきた上でなお、なんだか恥ずかしいのでここには書かないのである。
■ こういうこと
ではない記憶のあり方については、リディア・デイヴィスの翻訳者でもある岸本佐知子の
『気になる部分』に収録されている、
「真のエバーグリーン」を読んでほしい。巻末近くのあの数ページには、現在の自分を支える過去の記憶というもののうち、大げさでも大仰でもないほうのすべてが書き込まれている。
■「漱石先生臨終記」と「湖南の扇」、「長春香」は、どれもちくま文庫の集成6
『間抜けの実在に関する文献』に入っている模様。同じちくま文庫の
『私の「漱石」と「龍之介」』では、タイトル通り、ふたりについての文章がまとめて読める。
このようなことがわかるのは、
こちらのサイトにあるこの
文庫本目録のおかげである。最高。
旺文社文庫の百閒、次は
『凸凹道』です。
追記:
すぐ上で、岸本佐知子の書きものを「現在の自分を支える過去の記憶というもののうち、大げさでも大仰でもないほうのすべてが書き込まれている」と紹介したが、2020年の終わりに出た
『死ぬまでに行きたい海』は「現在の自分、それって記憶のことである」と彫られた棍棒みたいな本であり、書く側のことも読む側のことも何度も殴ってくるような文章の塊だった。わたしは『死ぬまでに行きたい海』を、百閒に読んでほしいと思う。
■ 旺文社文庫『鶴』(1981)目次:
鶴
長春香
三校協議会
貧凍の記
翠佛傳
饗応
写真師
名月
八重衣
蘭蟲
井底雞
稲荷
面会日
秋宵鬼哭
濡れ衣
林檎
牝雞之晨
初飛行
饒舌
澤庵
雞声
軒堤燈
漱石先生臨終記
湖南の扇
忘れ貝
象頭山
口髭
狸芝居
録音風景
蓄音器
柄長撿校
柄長勾当
百鬼園先生言行録拾遺
烏城追思
郷夢散録
來時ノ道 桐の花 杉鉄砲 学校道 謎 吹風琴 日清戦争 金峯先生 岡村校長 森作太先生 元寇の油絵 勇敢なる喇叭卒 先生の喧嘩 黄海の海戦 李鴻章 亥の子餅 串団子 油揚 大手饅頭
動詞の不規則変化に就いて
解説 種村季弘
「鶴」雑記 平山三郎